映画『牛久』配給会社の「経緯説明②」についてのコメント


ブログ「入管収容所のドキュメンタリー映画は何が問題か」

2月9日の配給会社「説明」は肝心なことを説明していません。


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映画『牛久』配給会社の「経緯説明②」についてのコメント

2022年2月12日 柏崎 正憲


映画配給会社うずまさが「映画『牛久』劇場公開への経緯説明②」と題した文書をウェブ上に公開しました。

文書には日付すらついていません(同社のツイッターでの公開日は2月9日となっていますが)。

しかも、なぜ新たに「経緯説明」を発表したのかすら説明されていません


まあ、このブログへの反論なのは分かり切っています。

でもそのわりには、いちばん肝心なことについては語っていませんし、反論として成立しているようには読めません。


くりかえしになりますが、わたし柏崎は、この映画にたいしては(昨年6月以降は)何も要求していません。

しかし映画監督アッシュや配給会社うずまさが、嘘や歪曲された話を吹聴することだけは、我慢できないのです。

ですので、上記の「説明②」にたいしても、それが引き起こすかもしれない歪曲や誤解をただすという目的のため、コメントを出します。

今回、わたしが指摘したいことは四つです。


1 トレーラー公開前の四か月は空白のまま

配給会社「説明②」は、2020年10月19日、アッシュが隠し撮り映像を友人に見せ、友人から同意書への署名をもらったと伝えています(ちなみに隠し撮り映像の断片を2020年中に友人が見せられていたことは柏崎も知っています)。

ところが、次の説明は、アッシュが友人に「メッセージ」を送り返事をもらったという2021年4月29日にまで、一気に飛びます(メッセージとはEメールかSNSのメッセージでしょう)。


ところが問題の核心にかかわるのは、この「説明②」が空白のままにしている期間です。

つまり2021年1月17日からトレーラー公開の5月11日までの約四か月のあいだに何があったかです。


わたしが知っているかぎりのことは、すでに書きました。

1月17日、友人は編集中の映像を見るため友人に会いましたが、そのときに友人はアッシュに、映像を弁護士や支援者に見せて相談してから隠し撮りの公開を決めたいと、要望を伝えました。

その後も友人は何度か、要求に対応してほしいとアッシュに催促しています。

しかしアッシュはそれを5月11日のトレーラー公開まで無視しつづけ、そのまま友人の隠し撮り映像を使用したのです(「1 出演者の意向を無視」を参照)。


このことにより、友人はもちろんのこと、わたし自身もまたアッシュに裏切られました。

つまりアッシュは、支援者に情報を提供されるなど便宜を受けておきながら、隠し撮りを使うという彼のアイデアは、支援者にたいして意図的に隠し続けていたのです(「2 支援者から事実を隠蔽 」を参照)。


このことについて配給会社「説明②」は何も説明していませんね。わたしにとっては予想どおりですが。


2 「同意」の意味のすりかえ

あくまで友人は、2020年10月、映画の出演に同意しただけです。

その第一段階の同意だけで、自分の映像がどう編集され、どんな形で公開されるのか、交渉する余地をまったく奪われるなんて、ふつう思わないでしょう。

あるいはもしかしたら、2020年10月にアッシュが友人からとった「同意書」には「映像をどう編集し公開するかはアッシュに全権委任する」とでも書いてあったのでしょうか?

もしそうだとしても、すでに書いたとおり、友人は「同意書」の写しをアッシュから受け取っていないので、確かめようがないのです(「1 出演者の意向を無視」を参照)。

まさかそこまで卑怯な「同意書」ではなかっただろうと思いたいですが……。


このことにかかわらず、2021年1月17日の友人の申し出は、当然の要求であり、無視されるべきではありませんでした。隠し撮りの公開については、弁護士や支援者と相談してから決めたいという要望のことです。

そもそも被写体である友人には肖像権があります。

それに、もし隠し撮りの公開のせいで入管から不利益を受けるとすれば、そのリスクはアッシュよりもはるかに友人にあります(「5 映画の手法にかんする見解」も参照)。


しかも、当時まだ映像は編集段階で、現にトレーラー公開は四か月も先だったのです。

だから、友人は無茶なタイミングで要望を出したわけではないし、アッシュには対応する時間がじゅうぶんにあったはず。


それなのに、どうしてアッシュはそれを無視したのか?

2020年10月の「同意書」さえあれば、あとで友人がアッシュの気にくわない要望をしたとしても無視できると考えていたのでしょうか。

アッシュがどう考えていたかは知りませんが、彼が現にとった行動は、映画出演へそれ自体への「同意」(2020年10月の「同意書」)を盾にとって、その後の友人の要望を無効なものとして扱った、としか言い表せません。

ひとことで言えば「同意」の意味のすりかえです。


しかもアッシュは2021年5月11日のトレーラー公開後、問題を知った柏崎から、当初は穏やかな要望、ついで厳しい追及を受けると、柏崎とも友人とも会話を避けるようになり、かわりにアッシュの仲間が友人を責めるようになります。

そのせいで多大なストレスを受け、耐えられなくなった友人は、5月24日および6月1日にウェブ上で、映画の出演に「同意」するがもうこの件で誰とも話したくないと、つまり映画を黙認するかわりに映画との関わりを断ちたいという意志を、表明したのです(記事「3A」「3B」を参照)。


以上の、昨年5月11日から同月末までに起きたことについても、配給会社「説明②」は何も説明していないですよね。

アッシュから何も聞いていないのか、知っていて何もいわないのか。前者ならあまりに無責任、後者ならあまりに卑怯です。


3 他人のコメントを都合よく編集する

2021年6月以降、アッシュが友人にSNSで連絡をよこすようになったことも、柏崎は知っています。

友人が黙認を表明したから、安心したのでしょう。


アッシュから連絡がくることについて、柏崎は友人に何も言いませんが(彼は一人のおとなですから)、でも友人からはいろいろなことを聞いています。

配給会社「説明②」の書き方はアンフェアなので、一つだけ、友人から聞いたことを書きますね。


ことし1月、友人は、アッシュから映画の上映について、SNSで連絡をもらったそうです。

友人の映画にたいする態度は2021年5月末の声明から変わっていないので、その旨、かれは返答したようですが、そのついでに友人はアッシュに重要なことを尋ねたそうです。

2020年10月の「同意書」の写しをまだ受け取っていないが、それはいつくれるのか? と。

しかしアッシュは、会って話そうとか何とか、はぐらかすような返答をするだけだったそうです。

友人はアッシュと会って話したくはなかったので、それは断ったとのこと。


ところで上記の配給会社「説明②」には、今年1月27日にアッシュが「プロフィールテキストをメッセージで」送ったところ、友人から「内容は大丈夫です」と返事があったと書いてあります。

それってきっと、わたしが友人から聞いた上記の話のことなのかな?

もしそうだとすれば、友人が「同意書の写しはどうなった」と尋ね返してきたことを、隠していますよね? 

相変わらず自分に不都合なことは書かないんだなあ、トマス・アッシュ監督も、配給会社うずまさも。


アッシュがこういうことをする人なのは、よーーーーくわかっています。

すでに書いたことですが、昨年5月13日、わたしがアッシュに事情を尋ねる電話をかけたあと、わたしに電話をかけ返すまえに、アッシュは友人に電話をして、会話を勝手に録音していたのでした。

さらに後日、その録音をアッシュは(脅しになると思ったのか)柏崎にEメールで送りつけてきたのです。しかも恐らく編集して、アッシュにとって都合のいい会話に聞こえるように(記事「3A」「3B」を参照)。


あれ、ドキュメンタリー映像作家って、真実を伝えたり、誰かさんがかっこよく言っているみたいに「聴きとりづらい声を聴く」ために作品を作っているんじゃないですっけ?

それなのに、勝手に他人との会話を録音して、自分の利益のためだけに編集する、なんていうことをしちゃうの?

そして、そんなトマス・アッシュ監督をかばう、一部のお仲間のドキュメンタリー映像作家たち。

かれらも同類なのかな? と、素人としては思ってしまいます。


4 配給会社太秦(うずまさ)は言葉に責任をもたない

配給会社にも一言だけ。

たしか最初の「経緯説明」(1月21日)では、こう書いていましたよね(前のURLが消えているから、わたしがDLしたものを貼ります)。


「映画制作時及びその過程において、出演者全員が映画出演に同意していることをあらためて確認をいたしました」

ここで話題にしているのは、最終的に友人が(映画との関わりを断つため映画そのものは黙認するという趣旨で)「同意する」とウェブで意志表明した件ではないですよね?

わざわざ「その過程において」と書いているのは、つまり、友人とアッシュのあいだで隠し撮りの公開について議論すら生じたことはなかったと、うずまさはそう信じていると、そうおっしゃりたいんですよね?

わたしの知るかぎり、それは嘘なのですが。


うずまさが上のように確信しているならば、今月9日の「経緯説明②」でも、アッシュからの説明を新たに書き足すのではなくて、自分たちが信じていることを、自分たちの言葉で、根拠を示しながら、きちんと説明すればよかったのではないでしょうか。

それができないのなら、1月21日の「出演者全員が映画出演に同意していることをあらためて確認をいたしました」という宣言は、中身のないハッタリだったのでしょう。


おわりに

映画監督アッシュも配給会社うずまさも、わたしの説明にたいして、まともな反論では返してくれません。

わたしには予想どおりでしたが。

どっちみち映画は上演するのでしょうけど、これ以上、嘘や事実の歪曲を吹聴することだけはやめてほしいものです。


映画を観にいく人にたいしても、わたしは何もいう気はありません。

ただし、この映画の制作過程において、このブログで説明してきたような問題があったことを卑怯なやりかたで否定したり偽ったりする人にたいしては、わたしは沈黙しません。

くわえて、こういう問題があったことを知りながら、あたかも問題がなかったかのように映画を公然と称賛する人にたいしても、わたしは黙りません。とくにそれが著名人であれば。

まあ著名人にとっては、わたしのような弱小の活動家が騒ごうがわめこうが、たいした問題ではないでしょうけど。

でもそういう人は、トマス・アッシュのような卑怯な手段をとる人と自分は同類なのだと、みずからの行動によって証明しているといえるでしょう。


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はじめに 入管収容所の某ドキュメンタリー映画は何が問題か

 

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はじめに

2022年2月7日 柏崎 正憲


映画『牛久』の映像は出演者の意志を無視して公表された

『牛久』と題した入管収容所についてのドキュメンタリー映画が、もうすぐ上映開始だそうです。

この映画の作者トマス・アッシュは、映画ウェブサイトの「ステートメント」に載せた昨年6月9日付の声明(1頁2頁)に、こういうことを書いています。

出演者の一人を支援する者が「隠し撮り映像を同意なく公開した」と情報を流したせいで「大変困難な状況に置かれ」た、しかしそれは「誤った情報」だと。


このステートメントで出演者の支援者と名指されている者、少なくともその一人が、このブログの著者、柏崎正憲です。

わたし柏崎は、2009年末から日本入管収容に反対する活動をしています。

上記の出演者である友人(お名前は公表されていますが、このブログでは伏せます)のことは、2018年3月から現在まで、継続的に支援しています。

(わたし自身は「支援者」というより、当事者も自分も、共通の目標のために力をあわせる「協力者」だと考えていますが、とりあえず以下でも「支援者」と名乗ることにします。)


さて平たくいえば、わたしは映画『牛久』の作者アッシュに、上記の声明で嘘つき呼ばわりされているわけです。

しかし、映像作家アッシュが友人の意志を無視して映画を公表したことは事実だと、わたしはこのブログであらためて証言します。

友人が話してくれたことに、そして自分自身が経験したことにもとづいて、わたしは自分が知っているかぎりのことを、ここに説明します。

それによって、この件で事実を歪めているのは「支援者」ではなく映画の作者アッシュだと、じゅうぶんに証明されるはずです。


あらかじめ簡潔にいえば、こういう事情でした。

友人は、日本語による「同意書」なる文書(ただし内容不明)にサインをしたあとに、自分の「隠し撮り映像」の主要部分を映像作家アッシュに見せられました。

そのとき友人はアッシュに、映像を公表する判断をするまえに弁護士や支援者と相談したいと申し出ました。

しかしその四か月後、アッシュは友人の意向を無視したまま、かれの隠し撮り映像を含む映画『牛久』のトレーラーを公開しました。

それまでに、友人は何度もアッシュに同じ意向を表明していたのに。

このことを「同意があった」といえるのかどうか。わたしの記事を読んだうえで、読者は判断すればいいでしょう。


発表が遅れた理由

わたしが自分自身の名で証言を公表しようと決めたきっかけは、もちろんこの映画の一般上映が発表されたことです。

しかし問題が表に出たのは、映画のトレーラーが公開された昨年5月11日以降でした。

その時期に説明すればよかったではないか。そう言われるかもしれません。

もちろんそのつもりでした。

しかし友人が、身の回りの騒ぎが早く静まることを望んだのです。

それは、映像作家アッシュの取り巻きが友人を執ように責め、それに友人が耐えられなくなったせいです。つまり、これもアッシュのせいです。


当時、友人はまだ収容を解かれて1年だったし、治療中の病気もあります。そのため、騒ぎがよけいに精神にこたえたのです。

このことを友人は、昨年5月23日付の手紙(彼の支援活動ブログに公開)で「多くの人々から、私を侮辱する電話を受けました」と表現しています。

結果として友人は、自分の映像の撤回をもう求めないかわりに、この映画について作者アッシュとも他の誰とも話すことを拒否する、という決断をしました。

その意向をくんで、わたしもさしあたり、自分自身の名で事情を公表することは控えました。いつか別の機会に、みずから発言しようとは考えていましたが。


配給会社が嘘を吹聴

ところが先日、この映画が一般上映されると発表されました。

しかも作者アッシュのみならず、配給会社である株式会社太秦(うずまさ)が、この映画には何も問題がないことを同社も確認済である旨、声明を出したのです。

今年1月21日付の「映画『牛久』劇場公開への経緯説明」なる文章(リンクが切れているのでわたしがDLしたものを参照)には、こう書かれています。

「映画制作時及びその過程において、出演者全員が映画出演に同意していることをあらためて確認をいたしました。」

しかし配給会社うずまさは、アッシュの言い分をうのみにしているか、同意ということばの意味を歪めているか、どちらかでしかありません。


念のため補足すると、同声明でうずまさは「入管問題に取り組んでいる団体・個人にご挨拶に伺い、監督はじめ、皆さまと話し合いを重ね」たうえで上映を決めたと書いていますが、これも事実ではありません。

少なくとも一出演者である友人や、その支援者であるわたしには、配給会社のうずまさから挨拶や話し合いの申し出はありませんでした。


映画それ自体がどうなるかは、わたしの知ったことではありません(友人がアッシュや映画との関わりを断ちたいと意志表示したので)。

しかし、このような嘘を吹聴されて、もはや黙ってはいられないのです。

いまや入管問題に取り組んできた一部の人たちも、映画を「賛否両論ありますが」などといいながら積極宣伝し、または宣伝に協力する始末。

映画を宣伝すること自体はともかくとしても、作者アッシュや配給会社うずまさの嘘がそのまま垂れ流されるのを、平然と見ていることはできません。

        

いまこそ、わたしが自分の名で、自分自身で見聞きしたことにもとづいて、事情を説明し、悪意ある嘘にたいして事実を提示しなければなりません。

なお友人にも、私がそうすることは承知してもらっています。


証言の目的

わたしが証言を公表する目的を、あらかじめ示しておきます。

念のためふたたび断っておくと、映画『牛久』の上映停止や一部映像の削除を求めるためではありません。

当初は友人の映像の削除をアッシュに求めていましたが、本人がそれを要求しないと表明してからは、わたしも映画についての要求はやめています。


他の映画出演者の意向に口を挟むつもりもありません。

ちなみに他の出演者の一人はわたしの別の友人ですが、かれが出演に同意していることは承知しており、本件についてお互いに相手の意向には介入せず、交流も支援も続けています。


隠し撮りという手法自体が主な問題だと、わたしが主張したこともありません。

わたしはアッシュの映画の手法に批判的ですが、それだけを理由に映画を公表すべきでないとは主張したことはありません。

あくまで、友人の意志を無視して映像を公開したことを問題にしているのです。


わたしの目的は、二つあります。

第一に、映画『牛久』の制作・発表の過程において友人が受けた侮辱について、作者アッシュや配給会社うずまさが、どう事実を歪めているのかを明らかにするためです。

とはいえ、アッシュやその仲間たちが非を認めることはないでしょうし、そのことは目標にしていません。

しかし映画を擁護しようと最初から決めている人間以外には、何が問題なのかはじゅうぶん分ってもらえると考えます。


第二の目的は、今後トマス・アッシュの映像の題材にされる人にたいして、気をつけたほうがいいと警告するためです。

アッシュは被写体の意志を軽んじ、その尊厳をふみにじる人間です。すくなくとも友人にたいしては、そのようにアッシュはふるまいました。


なお本ブログの全記事の文責は、筆者の柏崎のみにあります。

内容にかんする問合せなどがあれば、柏崎にご連絡を。


柏崎 正憲 080 8844 7318


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1 出演者の意向を無視

 

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1 出演者の意向を無視

2022年2月7日 柏崎 正憲


映画『牛久』の作者アッシュは、出演者の一人であるわたしの友人の意向を無視して、彼の収容中の隠し撮り映像を自分の映画に使用しました。

このことを明らかにするために、映画のトレーラー公開(昨年5月11日)までに何が起きたかを、わたしが知るかぎりで提示します。


「同意書」の署名まで

  • 2018年7月 東京入国管理局に収容中の友人が、東日本入国管理センター(牛久入管)に移される。
  • 2020年5月25日 友人が牛久入管から仮放免される。なおそれまでには友人は、アッシュが面会中に隠し撮りをしていたことを知らされていなかった。
  • 2020年末までに、友人はアッシュが撮った映像の一部を見せられ、映画出演の同意書に署名をした。しかし、①同意書は日本語だけで書かれていた(友人は読み書きはひらがな程度しかできない)。②同意書の写しをアッシュは友人に渡さなかった。その後に友人は、写しを渡すようアッシュに求めたが、いまだに受け取っていない。


友人がもともと出演に同意していたというアッシュの主張は、この「同意書」なる文書への署名のことを指していると考えられます。

このとき友人が、アッシュの映画に出演すること自体に同意していたのは事実でしょう。

しかし、この「同意書」に署名することによって、何にどこまで同意したことになるかを、よく知らされたわけではありません。

しかも「同意書」の写しを、アッシュはこのとき友人に渡さなかったし、いまだに渡していないのです。

だから、それが本当に「同意書」といえるものなのか、友人もわたしも知りません

これを「同意」あるいは「契約」と呼べるでしょうか?


出演者の要望を無視してトレーラーを公開

友人はその後、隠し撮り映像の公開について懸念を表明し、あることをアッシュに頼みます。まだトレーラー公開の4か月も前のことです

  • 2021年1月17日 アッシュは東京都内、有楽町駅付近の某所で、友人ともう一人の出演者に、隠し撮り映像を含む編集中の映像を見せた。
    • 映像を見たあとに友人は、自分の隠し撮り映像を使うまえに代理人弁護士や、柏崎など支援者にも見てもらって、問題ないかどうか相談したい旨、アッシュに要望を伝えた。
  • 2021年5月11日までに、友人は機会があるたびに、1月17日の要望について対応してくれるのかアッシュに尋ねていた。しかしアッシュは、そのうちに場を設けるなどといって、はっきりした回答ははぐらかしたという。
  • 2021年5月11日、アッシュが映画のトレーラーをYoutubeに公開。友人の隠し撮り動画もこれに含まれていた。このとき、はじめて柏崎はアッシュの隠し撮り映像のことを知った。


1月17日、友人がアッシュに伝えた要望は、十分にはっきりした内容のものです。

しかも、友人は同じ要望を4か月のあいだに何度も伝えました。


なぜアッシュは友人の要望を4か月にわたり無視したのでしょうか?

前年のうちに「同意書」に署名させたから、あとは出演者の意向などどうでもいいと、アッシュは考えたのでしょうか?

アッシュがそう考えていたに違いないことは、かれの行動がはっきりと示しています。


でっちあげの「同意」

このような経緯を友人がわたしに打ち明けたのは、アッシュがトレーラーを公開した昨年5月11日以降の、何度かの会話においてです。

こんなことになる前にもっと早く、柏崎などの支援者に相談しておけばよかったと、その点については友人は自分にも責任を感じています。


しかし、友人が悪いのでしょうか?

わたしはそうは思いません。

遅くとも昨年1月17日に、そしてその後も機会があるたびに、友人は明確に意志表示をしました。隠し撮りを公表するかどうかは支援者と相談して決めたいと。

この要望にアッシュが対応するまで、友人はアッシュを信じて待っていただけなのです。

その信頼に泥を塗ったのが、アッシュのおこないだというべきでしょう。


それに、友人の話を聞いたうえでの感想ですが、わたしは次のようにも疑っています。

アッシュは友人を「支援した」ということを恩に着せ、隠し撮りを映画に使うことにはっきりとは反対しにくい状況を意図的に作ったのではないかと。

そういう意図があったかどうかはおくとしても、事実の経過を見れば、アッシュのいう「同意」とは、でっちあげ fabrication だと結論づけるしかありません。


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2 支援者から事実を隠蔽

 

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2 支援者から事実を隠蔽

2022年2月7日 柏崎 正憲


なぜアッシュは友人の要望を4か月にわたり無視したか

アッシュが友人にサインさせた映画出演の「同意書」なる文書は、日本語のみで記載されたもので、しかも友人は写しを受け取りませんでした。

自分の隠し撮り映像を公開するかどうか一人で判断するのをためらった友人は、昨年1月17日、映像を代理人弁護士や柏崎にも見せて相談したいと要望しました。

しかしそれをアッシュに4か月にわたり無視し、そのまま昨年5月11日にトレーラーを公開したのです。


なぜアッシュは友人の要望を無視したのか?

わたしや他の支援者にたいして、隠し撮り映像のことを秘密にしておきたかったから、としか考えられません。

それ以外にどんな理由があるでしょうか。

現に、わたし柏崎も、それに代理人弁護士も、隠し撮り映像の存在や、このことにかんする友人とアッシュのやりとりについて、トレーラー公開以前にはまったく知りませんでした。

(ただし一部の、アッシュの取り巻きと化した信用のおけない「支援者」は、すでに知っていたようですが。)


当事者の信頼も支援者の信頼も裏切ったアッシュ

もともとわたしは、当事者が信用しているかぎり、メディアや映像作家による取材はたいてい快く受け入れてきました。

(ただし今回の件で、今後メディアや映像作家、とくに後者にはもっと注意したほうがいいと思うようになりましたが。)

アッシュについても、彼が映画のトレーラーを公開するまでは信用しました。

トレーラー公開の前日である昨年5月10日、友人とともにわたしの姿が彼の映画に映ってよいかとアッシュにEメールで尋ねられたときも、もちろんまったく問題ないと伝えていました。


しかしそれまでの4か月間、アッシュはわたしにたいして、隠し撮り映像のことをずっと秘密にしていたのです。

つまり、友人がそれを柏崎にも見せて、公開の是非を相談したいとアッシュに願い出た、昨年1月17日からその日まで。

ウルサイ支援者に隠し撮りのことがばれたら、そんなもの公開するなといわれると思ったのでしょう。

理由はなんであれ、隠し撮りを映画に使う件をわたしや他の支援者に知られまいとしたことは間違いありません。


だとすればアッシュは、友人の信頼を裏切っただけでなく、わたしが与えていた信用をも裏切ったのです。

わたし自身も、トマス・アッシュという卑怯者に裏切られた当事者です。

このこともまた、わたしがこの件について自分の名で事実を明らかにする資格と責任があると考える理由の一つです。


なお念のため、他の支援者に隠し撮りを見せて相談したいという友人の要望について、アッシュは昨年6月9日付声明では、いっさい言及していません。

この話があったこと自体について、しらを切ろうとしているのでしょう。


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3A 都合が悪くなると連絡を絶って卑怯な手段をとる(1)

 

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3A 都合が悪くなると連絡を絶って卑怯な手段をとる(1)

2022年2月7日 柏崎 正憲


柏崎とアッシュの当初のやりとり

映画のトレーラーが公開された昨年5月11日のうちに、面会中の隠し撮り映像を使ったドキュメンタリー映画の是非について、支援者のあいだで議論が起きました。

(たいていは反対か慎重意見で、当初に公然と積極擁護した支援者は、わたしの知るかぎりいませんでした。)

あるメーリンググループで、トレーラー公開直後にさっそく議論になり、そのグループにアッシュも加入していたので、支援者から好意的反応がないことはアッシュもすぐに知ったはずです。

というより、かれはそういう反応をすでに予想していたから、支援者にあらかじめ隠し撮り映像を見せたいという友人の要望を無視したのでしょうけど。


しかしわたしは、当初から無条件に映画に反発したわけではありません。

(隠し撮りの手法自体についてのわたしの見解は、記事5で述べます。)

映画の出演者のうち二人は自分が継続的に支援している方だったので、態度を決めるまえに、その方々の意向を確かめてみなければならないと思い、電話でようすを聞いてみることにしました。

このブログで「友人」と呼んできた方のほうは、最初の電話では、映画の出演には同意したけれど、隠し撮りを公開することはやはり不安だといっていました。

(念のため、この「同意」とは、記事1で書いた内容不明の「同意書」に署名したことです。)


この話をうけて、わたしはすぐにアッシュに電話をかけました。

友人は隠し撮り公開については不安をもっているから、かれが同意書にサインしたとはいえ、隠し撮りの部分だけでも今からカットできないだろうかと相談するためです。

まだトレーラーの段階なのだから、難しいこととはいえ不可能ではないだろうと考えたのです。

わたしは穏やかに要望を伝えました。しかしアッシュは、きちんと同意はとったし、いまさら友人が出演を撤回するはずがない、と話をうけつけませんでした。

だからといって、わたしはこの時点でアッシュを強くとがめてはいません。

ここまでが、トレーラー公開直後、すなわち昨年5月11日の正午前後のことです。


柏崎の追及を避けるため友人を操ろうと試みたアッシュ

しかしその後、友人と何度か話すうちに、かれからきちんと同意をとったというアッシュの主張そのものが疑わしいと、わたしは気づきました。

記事2で説明したように、隠し撮り映像を支援者に見せたいと友人がアッシュに要望していたことを知ったからです。

このとき、わたしはアッシュが自分の目的のために事実を歪曲する、ずるくて危険な人物なのだと察知しました。


それでも、アッシュから話を聞くまえに判断をくだすのはフェアではないと考え、わたしは彼の話もきくことにしました。

トレーラー公開から二日後の5月13日、わたしはふたたびアッシュに電話をかけました。

二度ほどかけ、応答はありませんでしたが、しばらく後にかれがかけ返してきました。それが19時頃です。

しかしアッシュは「友人から許可はもらっている、友人に尋ねてくれ」などと、事情の説明もなしに主張をくり返すだけでした。

しまいには、仕事で忙しいからと電話を切ろうとする始末。

なのでわたしは、友人からの上記の要望について24時間以内に説明を求めるとアッシュに伝え、電話を切りました。


そのすぐ後、友人と電話で話したところ、さらにひどい事実が分かります。

わたしがアッシュに電話をかけたあと、アッシュがかけ返してくる19時ごろまでの一時間ほどのあいだに、アッシュは先に友人に電話していたのです。

「映画の出演に同意したと柏崎に言え」と、そうアッシュは友人に迫ったのでした。

こうしてわたしは、アッシュはずるくて危険な人物であるとじゅうぶんに確信したのです。

アッシュはひんぱんに教会に通っているようですが(なお支援活動の資金も教会にかなり頼っていることをかつて自分でしゃべっていました)、神には信心深くふるまっているとしても、他人にたいしては、自分に都合が悪ければ平気で嘘をつき、騙し、自分の映画のために搾取するのです。

アッシュのふるまいはすべて利己心と虚栄心のための見せかけだったのだと気づき、わたしは怒りが抑えられませんでした(もっとも、宗教者でも筋の通らないことをする人は少なからずいますが)。


それゆえに友人には、アッシュの電話に応じるのは危険だから対応しないほうがいいと助言しました。

同時にアッシュには、次のようなショートメッセージを送りました。

「(友人)さんには、トマスさんからの電話にはしばらく答えない方が安全だ、と伝えました。理由はあなたがよく知っていますね?」

「あなたは、私の敵だと思っています。敵ではないということを証明してください。連絡を待っています。」

「くれぐれも、わたしを無視しようとは、考えないでください。それはあなたにとって不利益です。」


本題を避けながら的外れな弁明を続けるアッシュ

わたしが指定した期限である昨年5月14日19時までに、アッシュはわたしに回答しませんでした。

わたしはその後も何度かショートメッセージを送りましたが、アッシュはすべて無視しました。

なのでわたしは14日19時すぎ、アッシュの留守番電話に、かれが友人とわたしを最悪のかたちで裏切ったと分かったのでもう許さないと、メッセージを残しました。


その翌日、5月15日午前、アッシュはわたしにEメールで、英語のメッセージを送ってきました。それまで電話への応答はずっと避けておきながら。

友人がわたしに隠し撮りを見せたいと要望した件については、やはり説明がありません

自分の映画が入管との戦いのためにどれだけ意義があるかといったことを、白々しく述べ立てるだけでした。まったく的外れな弁明です。


わたしはもはやアッシュに英語で返答してやる気すら起きなかったので、翌16日午前に日本語で、もはやわたしはアッシュが裏切者だという認識を変えることがない旨、返答しました。

あわせて、友人の隠し撮り映像を映画から削除することを、あらためて要求しました。それを拒むなら、わたしはいつでも自分が知っているアッシュのおこないを暴露する準備ができているとも伝えました。

これが、わたしがアッシュにたいして個人的に伝えた最後のメッセージです


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3B 都合が悪くなると連絡を絶って卑怯な手段をとる(2)

  

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3B 都合が悪くなると連絡を絶って卑怯な手段をとる(2)

2022年2月7日 柏崎 正憲


アッシュの取り巻きによる友人への侮辱

その一方で友人は、しばらくはアッシュとの会話を続けようと試みたようです。自分の意向を理解してもらうために。

しかし、アッシュは友人の電話にも応答しなくなりました。

友人を丸め込むことができないと分かったからでしょう。


そのかわりに、友人と面識のあるアッシュの取り巻きたちが、次々と友人に電話をかけ、友人をとがめるようになりました。

アッシュの仲間の映像作家や、映画『牛久』の出資者などです。

そのせいで友人は精神的均衡を大きく乱されます。


もとより友人には、長期収容から解放されて一年たっても、軽いうつのような自覚症状がありました(だれもが長期収容後は程度の差はあれPDSDぎみになります)。

将来の生活への不安やいくつかの持病も、不安を持続させます。

そんな精神状態であった友人に、アッシュの取り巻きからの執ような電話は、耐えがたい精神的重圧でした。


昨年5月17日付で、友人は手紙をウェブに公開しました(母語スペイン語で書いて知人に翻訳させたもの、それを柏崎が支援ブログにアップロード)。

その手紙には、昨年1月17日以降、自分の隠し撮りを支援者にも見せて相談したいと何度も要望したこと、それをアッシュに無視されたこと、アッシュが最近では自分との会話を避けていること等が書かれていました。


しかし5月23日付で、友人はそれを別の手紙に差し替えます。

その理由は、差し替え後の手紙にはっきり書いてあります。

「多くの人々から、私を侮辱する電話を受けました。私たちが違う方法をとるからと言って。」

「あの『牛久』という映画については話したくありません。」

「誰もが尊重されるに値します。……私も、無益に消耗された精神的健康のために、尊重を受けることを求めます。」


かれ自身が表現するとおり、友人はアッシュの取り巻きによって侮辱されたのです。

かれはそれを終わりにしたくて、上の5月17日付の手紙をウェブから削除しました。しかしそれは、書かれている内容を撤回したことを意味しません

「私の手紙は削除します。とはいえ、それはなお、私の感じていることなのです。」


友人との電話をこっそり録音していたアッシュ

さらには5月30日、アッシュはわたしに、二つの音声ファイルを説明なしにEメールで送りつけてきました。

一つは、わたしが5月14日にアッシュの電話に残したメッセージです。

わたしになにか揺さぶりをかけたいだろうと、なんとなく意図は推測できましたが、そのメッセージの意図は上述のとおりであり、それをアッシュが音声ファイルで送り返したからといって、どうということはありません。


しかし、もう一つの音声メッセージには、あらためて怒りがわきました。

それは友人とアッシュとの通話の録音です。

いつのものかはっきりわかりませんが、わたしがアッシュに電話をかけた後、かれがかけ返すまえに友人と通話したときのものでしょう。


たぶん、それは友人が映画出演に同意した証拠だといいたかったのだと思います。

しかし、会話や音声の途切れ方が不自然だったので、編集された音声だとわたしは気づきました。

おそらく通話の録音自体、会話の相手である友人には伝えず、こっそり録ったのでしょう。

さらにはそれを、さも自分にとって都合のよい会話をしているかのように、編集したのでしょう。

だからわたしは、この録音を聞いてもまったく見解は変わりませんでしたが、あらためてアッシュに怒りがわいたのです。


沈黙を強いられた友人

しかし上述のとおり、すでに当事者である友人は、アッシュの仲間たちの執ような侮辱に耐えられなくなっていました。

6月1日付で、友人はあらためて手紙を作成し、ブログに公開します。

趣旨は5月23日付の手紙と同じです。もう映画にたいして要求をしないかわりに、アッシュとの関わりを断つという宣言です。

ただしその手紙は、柏崎を含む三人の立ち会いのもとで作成されました。

(なお、その一人はアッシュの映画を擁護する映像作家です。この人物は、友人の手紙の意味が何なのかを本人からよく聞いたはずなのに、その後も、アッシュの言い分が正しいということを吹聴しつづけたようです。)


こういう事情のため、わたしも、友人の映像削除の要求はこれ以上追及しないことにし、また事実の公表についてもいったん保留にすることにしました。

もちろんためらいはあったし、友人の判断はかれにとって逆効果ではないかとも思いましたが、この騒ぎが続くこと自体が耐えがたいというかれの意向を尊重しました。


さて読者のみなさん、これを「同意」と呼ぶべきでしょうか

わたしは、友人は沈黙を強いられたというのが正しいと思います。

というより、利害に心を囚われてる人でなければ、誰でもそういうのではないでしょうか。

よかったですね、トマス・アッシュさん。あなたの取り巻きが出演者を精神的に追い込んでくれたおかげで、面倒くさい追及がなくなって。


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4 歪曲ばかりのアッシュ声明

 

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4 歪曲ばかりのアッシュ声明

2022年2月7日 柏崎 正憲


① 映画『牛久』ウェブサイト内「ステートメント」に掲載の、昨年6月9日付声明(1頁2頁)で、アッシュはこう述べました。

わたしの友人が「6月1日、ホームぺージ上で、声明を出し、映画への出演に同意していることを、改めて表明してくれました」と(1頁)。

これについての事実は、記事3で説明したとおりですから、記事3Bの最後の文をそのままくりかえします。

「さて読者のみなさん、これを「同意」と呼ぶべきでしょうか?」

「わたしは、友人は沈黙を強いられたというのが正しいと思います。」


② アッシュはこう書きました。

「私はAさん本人からも彼の弁護士からも、映像の削除や『牛久』の上映中止を求める連絡は受けていません」(声明1頁)。


Aさんとは本ブログでいう「友人」のことですが、これは嘘です。

記事3Bで述べたとおり、友人の電話をアッシュが避け、そのかわりに、取り巻きが友人に侮辱の電話を執ようにかけるようになったのです。

それと念のため、やはり記事3のとおり、友人の支援者であるわたし柏崎が、友人の隠し撮り映像を映画から削除することを、はっきり要求しました。


③ アッシュはこう書きました。

「〔昨年〕4月29日 Aさんと私はこれまでも頻繁に連絡を取り合ってきたが、この日もAさんに、ポスターや予告編の出演部分の確認をした。Aさんはこれを、喜んでくれた」(声明1頁)。


まず、友人が「喜んでくれた」うんぬんはアッシュの主観なので問題になりません。これ以降も同様。

この日までに何度もアッシュが友人と「連絡を取り合ってきた」ことは事実でしょう。

しかし肝心なのは、次の問題です。

昨年1月17日以降の4か月間、友人は何度も、隠し撮り映像を支援者にも見せて意見を求めたいとアッシュに申し出たと言っているが、そのことが事実かどうか

この問いを、わたし柏崎は当初、アッシュに個人的に投げかけましたが、かれは最後まで回答を避けつづけました(記事3Aで説明したとおり)。

そして声明でも、このことについては触れません。

この問いに答えられないかぎり、映像公開までにアッシュが何度、友人と「連絡を取り合ってきた」としても、アッシュの主張には中身がないのです。


④ アッシュはこう書きました。 

「5月13日(昼) Aさんは私に「収容者がどういう状況におかれているのか、映画を通じて知らせたいという気持ちに変わりはない」と、電話で話した」(声明1頁)。


そういう話を友人がしてもおかしくはありません。

もともとアッシュの映画に出演すること自体には、友人は同意していたのですから。

そのうえで、隠し撮り映像の公開については他の支援者に意見を求めたいという要望を、トレーラー公開の4か月も前に表明していたのに、それをアッシュが無視したことを問題にしているのです。 

上の発言をアッシュが引用したのは、自分に都合よく見せられる発言を切り取っただけでしょうが、この発言だけではアッシュの正しさは少しも証明されません。


なお、ここで「5月13日(昼)」と書いてあるのは、おそらく不正確です。

この日、わたしが夕方にアッシュに電話をかけたけど応答せず、約一時間後の19時ごろにアッシュがかけ返してきましたが、そのあいだにアッシュは友人に電話をかけ、映画に同意したと柏崎に伝えるよう迫っていたのです(記事3Aを参照)。

このときの電話のことを、上の「5月13日(昼)」は指していると思われます。

そして後日、友人とアッシュとの通話のおそらく編集された音声を、アッシュはわたしにメールで送りつけました(記事3Bを参照)。

つまり、アッシュは昨年5月13日、柏崎からの着信を確認したあと、柏崎の追及をかわすためまず友人に電話し、しかもこっそり通話を録音しながら、同意したと柏崎に伝えるよう友人に迫り、そのうえで録音を自分に都合のいいように編集し、さらにはそこから都合よく見える発言を切り取って声明に引用したのではないかと思われます。


⑤ アッシュはこう書きました。

 「5月13日(夜) Aさんの支援者から「トーマスさんからの電話にはしばらく答えない方が安全だと、Aさんに伝えてある」とのメッセージを受け取った。そのメッセージを受け取って以降、私はAさんへの連絡を試み続けたが、今に至るまで、Aさんとは連絡がとれていない状態である」(声明1頁)。


嘘もいい加減にしろといいたい。

実際には、友人は昨年5月13日よりあとにもアッシュに電話をしました。

ところがアッシュは応答しなくなり、かわりにアッシュの取り巻きが友人に電話をかけ、かれに屈辱を感じさせる言葉を投げかけるようになったのです。

5月13日以降、友人との話を避けるようになったのはアッシュだということは、5月17日付の友人の手紙で述べられていました。

その手紙を、アッシュの取り巻きの執ような電話が与える精神的苦痛のせいで、友人は公開停止しますが、そのかわりに公開した5月23日付の手紙では、アッシュのかわりにかれの取り巻きが執ように電話をかけてくるようになったことを、友人は述べています(記事3Bを参照)。


したがって、まずアッシュが友人にたいして連絡を絶ったのであって、友人がアッシュとの関係を断つことに決めたのは、そのようなアッシュの不誠実きわまりない態度を見たあとのことです

アッシュは友人や柏崎の追及から逃げ隠れ、そのかわりにかれの仲間を操って、友人に精神的圧迫をかけた、というのが真相に近い説明でしょう。


そして、わたしが友人に、アッシュからの電話には「電話にはしばらく答えない方が安全だ」と助言したのが、いつ、どういう理由でなのかは、記事3Aで説明したとおりです。つまり、アッシュが柏崎からの追及をかわすために友人を操ろうとしていたと知ったからです。


⑥ アッシュはこう書きました。 

昨年6月1日付の友人の声明について 「“Aさんが同意をしていないのに映画を公開した”という事実に反する評判が立ち、映画の公表に支障をきたしていることにAさんが心を痛め、上記の表明をしてくれたのではないかと思っています」(声明1頁)。


よくもまあここまで自分に都合のよい曲解を臆面もなく表明できるものだと、呆れを通り越して感心します。

アッシュはキリスト教の信仰に篤いようですが、神に恥じる気持ちは湧かないのでしょうか(わたしは無神論者なのでどうでもいいですが)。

友人がどんな意図で、どれほどの苦しさと失望と悔しさのなかで、あれらの手紙を公表したのか。

それは記事3Bで説明したとおりなので、わざわざくりかえす必要もないでしょう。


⑦ アッシュはこう書きました。 

「私はAさんが世間の注目を浴びて、ストレスを抱えることには、加担したくなかったので......」(声明2頁)。


どの口がいうか。

5月13日の電話のあと、アッシュは友人と話すことを避け、そのかわりにかれの取り巻きが友人を執ように責めたのです。

アッシュが仲間をそう仕向けたとしか考えられません。

友人に「ストレス」を与えた張本人は、トマス・アッシュ、あなたです。


ちなみに、わたし柏崎や、わたしの活動仲間も、アッシュの仲間や盲目的な支持者と思われる面識のない人物たちに、SNSで誹謗中傷されました。

まったく根拠のないデマや言いがかりを色々と書かれました。

それも、アッシュやかれの近しい仲間が仕向けたのでしょう。


しかしながら、アッシュやかれの取り巻きが、歪曲やおかしな操作をされていない首尾一貫した事実を説明したことなどありません

まっとうな理解力があり利害関心に目が曇っていない人なら、このブログでわたしが説明したことと、アッシュが述べ立てていることを比べて、筋が通った話をしているのはどちらか悩むことはないでしょう。


結語 

映画はどうぞ勝手に上映してください。

隠し撮り映像を含めて公開に同意した別の出演者たちには、もとより何もいう気がありません。

しかしながら、トマス・アッシュ、映画の配給会社うずまさ、そしてアッシュの取り巻きたちが、嘘を吹聴することだけは黙って見ていられないのです


そして読者にはあらためて警告します。 

もしも今後、トマス・アッシュという映像作家に取材を申し込まれたら、あなたは警戒すべきです、というより断るべきです。 

かれは自分の利益のために、他人を平気でだます嘘つきなのですから。







5 映画の手法にかんする見解

 

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5 映画の手法にかんする見解

2022年2月7日 柏崎 正憲


入管収容者との面会を隠し撮りして映画に組み込むという手法について、当初、支援者のあいだで公然と積極擁護する者がいなかったことは、記事3Aで述べました。

このことと、わたしの見解とについて、すこし補足します。


支援者が入管面会隠し撮りに批判的である理由

アッシュの映画『牛久』のトレーラー公開後、まず支援者たちが懸念したのは、出演者のリスクでした。

ねんのため、アッシュが牛久入管の規則に違反したこと(無許可の庁内ビデオ撮影は庁舎管理規則違反)それ自体を問題にした人は、わたしが知るかぎりはいません。

アッシュ本人は、この件により、二度と牛久入管での面会申請は許可されないでしょうし、他の入管収容施設でもたぶん同じ対応をとるでしょうけど、その程度のリスクです(そもそもアッシュがそんなことを試みる気はないでしょうけど)。


しかし映画に出演した元収容者はどうか。

かれらは法律上は、仮放免許可により収容を免除されるという立場であり、入管の裁量により、入管はいつでもかれらを再収容できます

しかも、再収容の理由を告げることすらなしに

とんでもない人権侵害です。しかし、現にそういうことをおこなってきたのが入管。

2019年夏、命がけのハンガーストライキで牛久入管から仮放免を得た人々がみな、たった二週間で再収容されたことは、まだ最近の話です。

2021年11月には、消化器を悪くし、コロナ後遺症や骨折、心因性とみられる嘔吐と栄養不足もあるのに、東京入管によりたった二週間での再収容をくらった人もいます。


だから、入管収容者や仮放免者の事情を分かっている人で、あの隠し撮りが公開されているのを見て、懸念をもたない人はいません。

たしかに、映画のトレーラー公開から8か月ほどたったものの、いまのところ出演者が入管から不利な扱いを受けたという話はきいていません。

しかしそれは結果論でしかなく(しかも確定的な結果とはいえない)、当初は、このことが出演者に深刻な危険をもたらさないとは誰にもいえなかったのです。

だから当然、アッシュは不信をもたれました。

このトマス・アッシュという映像作家は、入管収容者や仮放免者の立場を知りながら、なぜこんな危険なことができるのかと。

自分の目的のために他人をかえりみない利己主義者ではないかと。


ただし、出演者の意向をどう考えるかについては、反応はまちまちだったように記憶しています。

出演者の意向にかかわらずあの映画は論外という見解もあれば、当時者が同意しているかぎり異論はあっても口出しをする立場ではないという見解もありました。

わたしも、どちらかといえば後者でした。


ところが現実には、このブログで説明してきたように、出演者の一人にたいしてとんでもない裏切りをはたらいたうえで、アッシュは映画を公開したのです。

そのあまりに卑怯で汚いやりかたを知ったいま、わたしはかつて無知ゆえにアッシュを信用してしまったことを深く恥じています。


柏崎の見解

入管収容者の面会の隠し撮りについて、わたし自身の見解を述べます。

隠し撮りという手法自体については、賛成でも反対でもありません。

もしかりに、隠し撮りによってしか告発できない問題があったとすれば、それをする理由もあるでしょう。

まさに面会の場面で、収容者が入管職員にひどい人権侵害を受けた、とか。


しかし、アッシュの映画は、ただ面会での会話のようすを流しているだけのようです。

出演者はみな仮放免されているので、外でじっくり証言を撮影する時間は、いくらでもあったでしょう。

面会の場面でなければいけない必然性がまったく認められません

まあ、アッシュにとっては必然性があるのでしょう。

入管収容者との面会の風景をほとんどの人は知らないから、それだけで物珍しく、ショッキングに見せる効果があるのでしょう。

それに、権力に抵抗するドキュメント作家という自己演出も狙っているのかもしれません。

しかしそれは、利己的な映像作家アッシュにとっての必然性であって、当事者を支援したいと心から望む人にとっての必然性ではないとわたしは考えます。


他方で出演者たちとっては、上述のような軽視できないリスクがあります。

まっとうな支援者であれば(というのは、まっとうでない人もときにいるので)、わざわざ当事者に不必要なリスクを生じさせることを選んでおこなったりはしないでしょう。

だから、もし昨年、映画『牛久』のトレーラー公開前に、友人がアッシュの対応をまたず、このことをわたしに相談していれば、まちがいなくわたしは隠し撮り映像の公開に反対したでしょう。


映像公開に同意した出演者の勇気には、敬意を表します。

しかし同時にわたしは、アッシュに勇敢さなどまったくなく、負う必要のない大きなリスクを出演者に負わせて、利己的な目的を貫いたにすぎないと、言い加えないわけにはいきません。


アッシュの撮影手法にかんする付言

ついでながら、2019年末ごろ、アッシュは一度、隠し撮り用カメラの持ち込みが牛久入管にバレて、数か月間、面会禁止になっています。

そのことをわたしは、2020年はじめに本人から聞きました。

だから柏崎も自分が隠し撮りをしたことは知っていただろう? と、アッシュは昨年5月15日のわたし宛てのEメールに書いていました。


いえいえ、わたしが知っているのは、それだけではありません。

そのあとアッシュが、ごめんなさい、許してください、もうしませんと詫び状を牛久入管に提出し、それからしばらくたってようやく面会禁止を解かれたことも知っています。

そうやって入管にたいして卑屈に降伏したやつが、またこりずに隠し撮りを続けているなんて、誰も思わないでしょう?

しかもその後、そのつど牛久入管にお伺いを立てて、建物の外(ただし敷地内)で撮影することにも、アッシュはお許しを得ていたようです。


それほどにも入管にたいして卑屈に、従順にふるまいながら、アッシュは隠し撮りを続けていたのです。

入管には別に同情しませんが、アッシュは自分のことが恥ずかしくならないのか? と、わたしには疑問です。

まあ、アッシュは他人にどれほど筋のとおらないことをしても、心が痛まないのでしょう。

しかしそれが、運動のためとか、大義のためだとかは言わせません。

自分の映像作品で成功したいという、かれの利己心と虚栄心のためでしかないことは、アッシュの行動がよく示していると、わたしは考えています。